富山県の城

富山の城跡探訪

放生津城(ほうじょうづじょう)

富山県射水市中新湊(地図:Googlemap

  放生津城は、もともと鎌倉時代頃から置かれた守護所でした。

 元弘3年(1333)、越中守護・名越時有が、鎌倉幕府に反抗する出羽・越後の宮方勢を迎え撃とうとして失敗。名越氏は放生津城に火を放ち、一族郎党79人が切腹して果てました。(『太平記』:>>関連 二塚城
 その後、越中守護は魚津松倉城にあったようですが、嘉吉3年(1443)に守護代の神保国宗が放生津に館を持っていた文献があります。神保氏はここを中心に、射水、婦負郡を治めていました。
 神保氏の勢力は大きく、明応3年、神保長誠は明応の政変で幽閉された将軍足利義材(よしき)を放生津に呼び寄せ、上洛の準備をするほどでした。永正17年(1520)神保慶宗が長尾為影によって討たれ、放生津城も落城します。この時、神保慶宗はより防御しやすい二上城(守山城)に入っていたようです。

 その後、上杉謙信が陣を敷いたとも、前田利家家臣の奥村永福や山崎長鏡が守ったという文献もありますが、廃城時期ははっきりしません。江戸時代には、加賀藩前田家の米倉などが設置されました。
 
 城の規模は、『加越能古跡』によると「本丸南北七〇間東西四五間高さ一丈、西南一〇間、東北大川幅二五間、二ノ郭北南二八間東西二〇間」とあり、本丸でも南北約130メートル、東西約80メートルの大きさがあったことになります。

 現在の城跡地には、放生津小学校が建っていて、遺構はありません。グラウンド周辺の盛土は、土塁跡ではありません。

 新湊市教育委員会により、昭和63年、平成元年、平成3年に発掘調査が行なわれています。それによると、現在のグラウンドの地下1.5メートルに本丸が存在していたことが分かりました。また、校舎の北側に堀が存在します。
 地下1.5メートルですと海抜以下になりますが、当時の海岸線は現在より1km沖合にあったと推測されます。

 放生津城時代の遺物としては、珠洲焼・越前焼、瀬戸焼・青磁・白磁などの陶磁器や、銅銭やかすがいなどの金属製品、生活木製品や鍛冶関係品などが出土しています。

 参考文献:放生津城跡を掘る(久々忠義:新湊市民文庫:平成4年)
日本城郭大系7 富山県
(写真撮影2008年4月)

放生津城
放生津小学校にある城碑と案内板。
このあたりが本丸の中心と推定されている。

放生津城案内板
放生津城案内板


小学校グラウンドをとりまくように盛り土があるが、これは「土塁跡」ではない 。
遺構はこの地下1.5メートルのところにある。

二の丸橋(新湊)
城跡近くにある「二の丸橋」
実際この場所に二の丸があった訳ではなく、本丸の西側にあったとされる。

放生津城 出土品
放生津城の出土品(射水市新湊博物館)

寺嶋職定過所札
極性寺蔵の「寺嶋職定過所札」(射水市新湊博物館)

 

 

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